温泉と愛
「愛」の定義を語る者は、長い歴史の中でたくさん居る。
王に始まり、作曲家、作家、画家、何かの教授、どこかの科学者、隣の既に銀婚式をとうに迎えたおじさんでもいいだろう。
では果たして、彼らの語った定義の中に真実はあるのか。
真実があったとして、誰がその否を決めることができるのか。
何だかチープだかディープだかレモンだか分からないような話になってきたが、私の見解はこうである。
全く違う話のように聞こえるが、あなたは温泉に入った時の、あの感じを定義することはできるだろうか。
寒い冬空の下、雪のはらはらと降る露天風呂で遠くの山を眺めながら、熱いお湯に冷えた体を沈めるあの瞬間の感覚。
私は、「愛」とは、ああいうものだと思う。
何も、温泉の温度が熱すぎて肌がだんだんと赤まって、体全体、特に足と背中が痒くてたまらなくなり、なぜ昨日もまたボディークリームを塗り忘れたんだろうと自分を恨む瞬間ではない。
私がここで言いたいのは、「愛」を「語る感覚」が似ていると思うのだ。
そう、温泉に入った時のあの瞬間を「語る感覚」に。
あなたが語るその感覚は、一緒に行った友人たちのその感覚と似ているかもしれない。
しかし、あなたが感じたもの、そのものの感覚は決して誰もが体験したことのない、あなただけの感覚であると思うのだ。
「愛」や「恋」も一緒であると思う。
間違えても自分以外の誰かに定義させてはならない。
なぜ私たちはいつも、世間の常識とプレッシャーに自分の感性を奪わせてしまうのだろう。
なぜ、陶器のような美しい若者の足を、安物のポリエステルでできたストッキングに上から下まですべて隠してしまう以外は非常識と言われてしまうのだろう。
なぜ、若く瑞々しい肌の上に、ドラッグストアでとにかく手に入れた、中に何が入っているかなんて分からないファンデーションを、毎朝せっせと塗り込むことが社会人としてのエチケットだと教え込まれるのだろう。
なぜ、公式の場では、乾杯の時のグラスの位置に気をつけてビールは飲まねばならず、さらに名刺交換にも事細かくルールがありそれを破っては仕事をする前から、「非常識」レッテルを貼られてしまうのだろう。
なぜ、世界中の全てのサラリーマンは皆全く同じような格好をしているのだろう。同じ形のスーツ、似たような色のネクタイ、硬くて動きにくい革靴。
ほとんどの人々は、世の中に蔓延しているこういった無言の圧力に疑問を抱くことすらなく従っている。食事をした後に歯を磨くのと全く同じ感覚で。
そうやって私たちは、世間に強調し自己を否定し続けるから、だから歳を取って、もう死神が表札を通り抜けているところでやっと言えるのだろうか。
「ああ、僕の人生はこうだったんだ。僕という人間は、こういう人間だった」
温泉と愛、それから私の人生。
私にしか語れないし、決められないのではないか。
SO LET ME.