双極性障害ワールド②

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初めて心療内科に行った時、実は私は診断名を聞かされなかった。

 

母と病院に行ったが、ひとり個室に案内され、紙とペンを持った女性に、いくつか質問をされた。食欲があるかどうか、夜眠れるかどうか、死にたいと思うか。

 

そのあと、母と診察室に通され、医師と面談したはずだが、そのことはほとんど覚えていない。多分その日は薬をもらって、帰宅したのだろう。

 

私は当時、高校2年生で、17歳の冬だった。

母は、顔面蒼白で涙が来る日も来る日も止まらない私に、とにかく学校を一週間休もうと言った。母が学校には連絡をしてくれた。私は、一週間くらいだったら、授業もなんとかなるだろうと思った。あの時はもう2月末で、授業もテストもほとんど終わっていたはずで、あとは3年生に進級した後のクラス替えの結果を待つばかりだった。

 

そのほぼ一週間後、東日本大震災が起きた。

 

この震災で、物理的心理的に被害を受けた人は数えきれないと誰もが知っているが、私も例外ではなかった。痩せ細った体に(生まれた頃から痩せ細っていた)、1年以上、従姉妹と叔母の自殺の整理を心の中で着けられず(今思うと当然だ)、誰にも打ち明けられず、そのくせどうしてか、今こそ泣き虫グセを治そうと毎日必死に涙を堪えて来る日も来る日も勉強だけに明け暮れていたが、ほんの少しだけ休んで、また頑張ろうと充電していたその時に、

 

津波は来た。

 

津波は、私の心の中にも、深く深く、入って来た。

毎日毎日、何度も何度も、津波の映像が流れた。

毎日毎日、何度も何度も、増えていくばかりの死者数が報告された。

 

私は今見ている映像から感じる底知れぬ不安に襲われ、疼くように泣いた。

母はそれに気づくと、慌ててチャンネルを変えたり、テレビを消したりした。

そうすると今度は、自分の中にある暗い津波が私の心を支配して、やはり私は泣いた。

 

そうして、学校へ復帰する時期はどんどん延びた。

私には怖くて、恐ろしくて、直視できずに逃げたいものが増えた。

テレビ、新聞、SNS、友達の何気ない話。

そこから始まり、どんどんエスカレートして、人々の目線までもが恐ろしく思えた。

 

そんな私を、家族は慎重かつ大切に見守ってくれた。

 

それでも、家族にしても、私のような存在を家の中にかくまい、暮らしていくのは初めての経験だったので、最初からそれは大変だった。

両親は、今まで言葉通りなんでもできた私が、食事も取らずに毎日朝から晩まで寝てばかりいて、学校には行けず泣いてばかりいる日が続いていることに対して、不安が溜まりに溜まっていたのだろう、私を言葉で責める日もあった。

当時一緒に家にいた妹たちは、ありとあらゆる責任から逃れようと卑怯な姿の私を見て、泣いて嫌がった。

出口はどこにもなかった。

病院には通っていたが、薬を目の前にすると、飲みたくない気持ちか、もしくは一気に全部飲み干して死んでしまいたい気持ちに襲われた。

 

希望が見つからなかった。

 

そして、家族も私同様、もしくはそれ以上に苦しんでいた。

 

今日はここまで。

ごきげんよう