いや、なんか聞こえるんだけど。
ホラーな話では一切ないので安心して読んでいただきたい。
ピアノを弾く人は世の中にたくさんいるだろう。
私は教室に通ってピアノを勉強した訳ではないので、別段上手には弾けないが、実家にピアノがあるので、時間があるときは何となくよく弾いていた。
父は私と同じ僻地で生まれ育ち、自分の家族も築いた訳だが、この父が音楽に限らずとてもユニークな思考の持ち主で、私が小さい頃車の中ではいつも、カーペンターズのベストアルバムが流れていた。今思えば、英語を話さない彼には内容はよく分からないであろう洋楽だった。小学校に上がった私に100円均一で買ったJ.S.バッハのCDをどこかからのお土産にくれた。ちなみにこのバッハは、学校の音楽室によく飾ってあるあのバッハではない。それでも私は彼のこのCDの最初の曲が、今でも一番お気に入りのクラシックだ。
父は見聞の広い人で、いろんなことに幅広く興味があるが、音楽の才能は特にあるわけではないらしい。歌はお世辞にも上手とは言えないし、楽器を弾いているのは見たことがない。
母はと言えば、私がまだ幼い頃、「猫ふんじゃった」のピアノ演奏を教えてくれた。
幼い私は、母はすごい人なんだとそれは尊敬したものだった。
しかし結果的にそれが私が母と一緒に弾いた、最初で最後の曲で(母は他に知らないだけで、今も元気に生きている。)それ以降の私のピアノは完全に独学である。
こんな環境で育った私だが、聞こえるのだ。
何が聞こえるかと言うと、音楽の、歌の、曲の、楽器の、なにか違うところが。
実家にはギターがあったが、なぜか誰も弾けなかったので、普段から気にすることはなかったが、例えばテレビやCDで、アコースティック調のラブソングを聞いていた思春期のころ、ギターを演奏している人が、左手を弦の上に滑らせて抑えるコードを変える時のヒュッというあの何とも言えない奇妙な音が気になって気になって、福山雅治の甘い低音など心に響かなかった。
自分がピアノを弾いている時、指を動かしながら、演奏中のピアノ本来の音が段々と遠ざかり、譜面のどこを弾いているか、今曲の何番を弾いているか忘れてしまうほど、ピアノの奏でる音ではなく、手元でシュッシュッと鍵盤どうしが擦れている音が気になってしまうことがあった。もしくは、鍵盤を強く押すあまり、鍵盤の下の部分が打ちつけられる音とか。
時代が変わって、高音質の音楽が身近に聞けるようになった今でもある。
サム・スミスの色っぽい歌声が、世にも美しい高音を奏でているその向こうで、たくさんの楽器が曲の奥行きを出しているのは分かるが、突然名前も形も分からない楽器の、カンッカンッという音がある時気になり始めると、もはやサム・スミスの美声はどこかへ消え去ってしまう。名前も分からないその楽器の、もはや曲名も分からない演奏会になってしまうのだ。
そんな生活だと大変では?と母は聞くのだが、実はそうでもない。
私は集中すると色んなことを忘れる。時間、食事、音、トイレに行きたかったのでさえ忘れる。
そんなに何日も続く集中力と言うわけではないが、どうかすると半日くらいは続く。そうなると私は異次元にいるので、サム・スミスのバックミュージックが何とかなど気になりはしない。
だから、普段仕事をしている時など興味が別のところへ行っている時は全く問題にはならない。主に、次の音が予測できるほど聴き慣れた音楽を聞いている時や、今自分が取り組んでいるものが単純である時に、音楽でなくとも「音」が頭の中に入ってくる。
要はきっと心に考える余裕があって、ふとした時に聞こえてくるのである。
この私の中の、小さな小さな当たり前。
同じような人がいるのだろうか。