双極性障害ワールド①

25歳時点の現在で、私の双極性障害歴は8年目である。

 

この記事は、私の歴史としてここに残したい。

もし機会があるのなら、遺伝すると言われているこの病気を、私の将来の子供達もまた持った時、少しでも助けになればいいと思って書き記したい。

私自身が病気と向き合うために、過去を振り返ることはほぼ無意味だと今は感じているが、記録として残したい。

もしかしたら近い将来、また私が大きな波と戦う時、何かの助けになるかもしれないとも思っている。

 

私の父方の家系は、昔から躁鬱を持っていたようだった。

父は自営業を営んでいたが、私がまだ小学6年生くらいの時心筋梗塞で倒れ、生死の境を彷徨ったが無事退院。しかしそこから彼は酷い躁鬱の世界に入っていった。

父は大きな船に乗っていたので、小さい頃から父は普段家にいないのが日常だった。

退院してからの父は、昔は大きく見えた背中を小さく丸め込み、椅子に座って来る日も来る日も毎日ぼうっとしていた。家族みんなが心配した。

ちょうど思春期だった兄は、頼りなくなってしまった父と口論したりしていたのを覚えている。まだ小さかった妹達も、昔はニコニコして子供が大好きだった父の、彼女たちに対して理由なく機嫌が悪いところを初めて見て、びっくりしていた様子だった。

 

何年も経ってから、父は必死の思いで仕事に復帰した。

ところがそれからまもなくして、父の姪っ子が自殺した。私よりも年上だったが、まだ20代で、ちょうど結婚するしないという話が出ていた頃だった。

みんなショックを受けた。私も例にもれず、とてもショックだった。

それから1年もしないうちに、彼女の母親、つまり私の父の妹の躁鬱が悪化し、彼女は自分の母親を頼って私たちの家にやってきた。

結論から言うと、彼女は数ヶ月で私たちの家を出ていった。

そして出ていって間もなく、彼女は自殺した。

 

みんなもちろん、とてもショックだったが、私はむしろ、彼女の心を救えなかったと言う虚無感が大きかった。お葬式では涙を堪えた。悔しい思いだった。

 

当時高校生だった私の学生生活はしかし、とても順調だった。

不調の時はなかったと言ってもいい。

朝は早く起きてバスに乗って登校し、帰宅しても夜遅くまで勉強していたので、成績も良かった。将来の希望も拓けていっていたし、いい友達にも先生にも恵まれていたのでとても充実した生活を送っていた。

 

ところが小さな、でも私にとっては大きな事件があった。

数学のテストで、小学生でもできるような単純な計算ミスをして、塾の先生に注意を受けた。模試の結果が、思ったよりも良くなく、今回は頑張ったと自負があっただけに落胆がいつもより大きかった。

そして決定的なことがあった。

当時たまたま国語の授業で学んでいた、夏目漱石の『こころ』と言う作品の一節が私の心に突き刺さった。

 

「もっと早く死ぬべきだったのに、どうして今まで生きていたのだろう」

 

そうなのかもしれない、と思うより前に、そうなんだと思ってしまった。

私が、誰かにそう言われたような気持ちがした。

世界が崩れ落ちたようだった。

 

私はクラスで自分の席に座っていた。涙を堪えるのに必死だった。

 

それから間もないある夜、私は自分の部屋から兄にこっそり電話をした。

最近自分の様子がおかしいこと。少しでも気が緩むと涙が止まらないこと。私も父と叔母と同じ病気なのだろうか。私も死んでしまうのだろうか。

兄は私の話を慎重に聞いてくれた。彼はいつもそうだった。彼は私が心から手放しに信頼できる人のひとりだった。すでに実家を離れていたが彼は、心配する必要はない、気分転換にこっちへ数日泊まりに来ていいよとも言ってくれた。

私は兄の声を聞いた安堵感と、大丈夫という言葉に、電話越しにたくさん泣いた。

私は兄に、両親には言わないで欲しいと頼んだ。心配をかけたくない一心だった。

ただ、兄が医療関係の勉強をしていたので、彼の意見を聞きたかっただけだった。

 

それから数日、涙を堪えながら学校に行き普段通りの生活をしていた。

母がある日、私を心配した様子で、兄から事情を聞いたと言ってきた。

少し頑張りすぎたみたいだから、ちょっと休んで、病院へ行こうと。

 

病院へ行くことへ抵抗はなかった。父がもう何年も通っていた病院で、信頼できる先生だと言っていたからだ。

病院で私はいよいよ診断を受けた。

 

これが私自身の双極性障害の始まりだった。

 

 

ごきげんよう