私の英語教育あれこれ
英語を話せる、ということを忠実に説明するのは難しい。
おそらく、どの国でも、どの言語であっても難しい。
なぜかというと、たとえ英検1級を持っていたとしても、コミュニケーションや発音のレベルはある程度しか証明できないからだ。それは日本語検定も同じ。聞いたことはないけどおそらくロシア語検定だって同じだろう。
私は英検1級を持っていないので、偉そうなことを言えないのだけれど、あえて自分のイングリッシュ・ジャーニーをここに記してみたい。
私は現在27歳。
同世代の子たちは、小学生の頃から英会話教室に通っていた、なんてことも珍しくないどころか、もはや当然とも言えるような世代。
私が英語と出会ったのは、正確にいうと、小学生の頃エンドレスで車内を流れていた「カーペンターズ」の曲たち。ただ、両親ともに英語なんてノータッチだったこともあり、歌詞なんて誰もわかっていなかったのでカウントしないでおこう。
英語らしい英語とまともに出会ったのは、13歳になった年。
そう。当時、英語の義務教育が始まるのは13歳。
私はその時に英語に出会い、初めてアルファベットを習った。
大文字はなんとか全部書けたけど、小文字は全部書けなかったことを覚えている。
私にとって英語はルールのあるパズルのよう。
色々な教育の仕方があるけど、私の頭の中では、文法問題はパズルだった。
ルールさえ覚えれば、単語や意味が完全に理解できなくても、当てはめていくだけ。
そんな私に転機が訪れたのが14歳。
あんな田舎の中の田舎から、両親が10日間のホームステイに出してくれた。
たった10日間。
学んだのは、知らない街のにおいと、知らない街の太陽の高さと、ガイコクのお寿司。
そして世の中には、英語を上手に話せない人なんか山ほどいて、
英語なんて、その時、その相手と意思疎通ができれば、とりあえずなんでもいいってこと。
この10日間は、言わずもがな私にとって大きな出来事だった。
私は英語と出会っておよそ1年半で、「もういいや」と思ってしまった。
文法も大事だけど、伝えたい意思と最低限のボキャブラリーがあれば、いけるじゃん。
となんとも生意気なことを思い、将来はキャビンアテンダントになれるね!と言った
(田舎育ちすぎて飛行機と縁がない人生を送っていて、よく意味もわかっていなかったが)
塾の先生の期待をよそ目に、キッパリと興味を失った。
ただ、自分でいうのもなんだけれど、英語の成績はいつもよかった。
先述したように、私にとっては英語はパズルだったのだ。
関係あるかどうか知らないが、整理整頓が得意な私は、パズルも得意だった。
それからたまたま耳がよかった(と両親は信じて疑わない)ので、
あさるように父と一緒にみていた洋画で得た発音と合わせて
気後せず英語を人前で話せていた10代。
今思えば、14歳の10日間とDVDで知ったかを気取っていた。
それでも、自信というのは恐れ知らずで、
ある時から、感情表現が少ないトークショーを、字幕なしで見られるようになり、
いつからか、Netflixのコンテンツを英語字幕で見られるようになり、
もはや今は、日本語字幕でコンテンツを見ていると、翻訳表現に気を取られてしまって
全く休まった気にならないので、むしろ英語字幕を好んで見るようになり、
先日フランス語のコンテンツを見た日には、英語字幕に目を凝らさないといけなくて
大変不便な思いをした。
よく英語の先生方や、教育熱心なママさん方に、
「どうやって英語を学んだのか教えて欲しい」
と言われるが、いまだに自分でもよくわからない。
わかっているのは、英会話教室なんて、ましてや外国人のお友達なんて、
私が育った僻地にはなかったことだけだ。
人生初のカウンセリング
先日、人生で初めてカウンセリングを受けた。
この病気になって8年、節々でカウンセリングを受けて見たいとお医者さんに相談はしていたものの、今は適時ではないと言われたり、私はそもそもカウンセリングには向いていないのではと言うお医者さんもいて、実現しなかった。
続きを読む双極性障害ワールド②
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初めて心療内科に行った時、実は私は診断名を聞かされなかった。
母と病院に行ったが、ひとり個室に案内され、紙とペンを持った女性に、いくつか質問をされた。食欲があるかどうか、夜眠れるかどうか、死にたいと思うか。
そのあと、母と診察室に通され、医師と面談したはずだが、そのことはほとんど覚えていない。多分その日は薬をもらって、帰宅したのだろう。
私は当時、高校2年生で、17歳の冬だった。
母は、顔面蒼白で涙が来る日も来る日も止まらない私に、とにかく学校を一週間休もうと言った。母が学校には連絡をしてくれた。私は、一週間くらいだったら、授業もなんとかなるだろうと思った。あの時はもう2月末で、授業もテストもほとんど終わっていたはずで、あとは3年生に進級した後のクラス替えの結果を待つばかりだった。
そのほぼ一週間後、東日本大震災が起きた。
この震災で、物理的心理的に被害を受けた人は数えきれないと誰もが知っているが、私も例外ではなかった。痩せ細った体に(生まれた頃から痩せ細っていた)、1年以上、従姉妹と叔母の自殺の整理を心の中で着けられず(今思うと当然だ)、誰にも打ち明けられず、そのくせどうしてか、今こそ泣き虫グセを治そうと毎日必死に涙を堪えて来る日も来る日も勉強だけに明け暮れていたが、ほんの少しだけ休んで、また頑張ろうと充電していたその時に、
津波は来た。
津波は、私の心の中にも、深く深く、入って来た。
毎日毎日、何度も何度も、津波の映像が流れた。
毎日毎日、何度も何度も、増えていくばかりの死者数が報告された。
私は今見ている映像から感じる底知れぬ不安に襲われ、疼くように泣いた。
母はそれに気づくと、慌ててチャンネルを変えたり、テレビを消したりした。
そうすると今度は、自分の中にある暗い津波が私の心を支配して、やはり私は泣いた。
そうして、学校へ復帰する時期はどんどん延びた。
私には怖くて、恐ろしくて、直視できずに逃げたいものが増えた。
テレビ、新聞、SNS、友達の何気ない話。
そこから始まり、どんどんエスカレートして、人々の目線までもが恐ろしく思えた。
そんな私を、家族は慎重かつ大切に見守ってくれた。
それでも、家族にしても、私のような存在を家の中にかくまい、暮らしていくのは初めての経験だったので、最初からそれは大変だった。
両親は、今まで言葉通りなんでもできた私が、食事も取らずに毎日朝から晩まで寝てばかりいて、学校には行けず泣いてばかりいる日が続いていることに対して、不安が溜まりに溜まっていたのだろう、私を言葉で責める日もあった。
当時一緒に家にいた妹たちは、ありとあらゆる責任から逃れようと卑怯な姿の私を見て、泣いて嫌がった。
出口はどこにもなかった。
病院には通っていたが、薬を目の前にすると、飲みたくない気持ちか、もしくは一気に全部飲み干して死んでしまいたい気持ちに襲われた。
希望が見つからなかった。
そして、家族も私同様、もしくはそれ以上に苦しんでいた。
今日はここまで。