僻地少女の言語の壁

みなさんは、「僻地」という言葉をご存知だろうか。

簡単に言うと、居住区民以外、年中誰も足を踏み入れることのない地域である。

踏み入れることができないのではもちろんない。

踏み入れる理由が全くない場所に位置しているのである。

 

電車の駅などもちろんない。

最寄りの駅へ行くには、「私たちは決してあなたたちを見捨てたりしませんよ」と、町にひとつしかないバス会社のお情けだけで1日に数本しか通っていないバスに乗り、50分。料金は1,130円。もちろん片道である。

タクシーをと思ったみなさん、タクシーは平均でも5,000円はかかります。もちろん片道。

 

私の故郷である「村」の特徴と言えば、区域面積的にはそれほど大きくないにも関わらず、港の底の形が非常に特殊で、寄港の際に安全であると言う理由から、昔は航海中のいろんな大きな船がやってきて、船員たちの憩いのまちとなっていたらしい。

だから旅館や飲食店、花街はもちろん、いわば大衆演劇場なるものがあり、俳優が大きな街から私たちの村を訪れ、賑わっていたとか。

 

しかしそれは現在80をゆうに超える私の祖母が、まだ若かったころにすでに幕を引いた話である。

 

いま私の村に残っているのは、超!強烈な方言である。

もちろん住民以外はほとんど理解できない。

それを痛烈に肌で感じたのが小学3年生の時だった。

 

実は私は、小学校へ上がってから、家から徒歩10分弱の分校へ通っていた。

もちろん学校には村の知った子たちばかりだった。

ところがそこに通学できるのは2年生まで。3年生になると家から徒歩40分ほどの「本校」なる場所まで通わなければいけなかった。

 

その「本校」で事件は起きたのである。

 

ある授業の時、私の親戚で幼馴染で親友の彼が、机から消しゴムが落ちたのを何気なく嘆いた。

「ーーーーーーー」(「あー、落ちちゃった」みたいな)

(実際に何と言ったかはご想像にお任せします。)

うそだと思うかもしれないが、私は今でも、当時彼の隣に座っていた女の子のギョッとした顔を鮮明に覚えている。

一瞬なにが起こったのか私も理解できなかった。その後彼女が説明してくれたのは、驚くことに彼女は、私の幼馴染が何と言ったか全く理解できなかったとのこと。

私達の言葉は、マイナー中のマイナーで、分校出身の私達13人は、日本の田舎にある小学校で、さらに田舎者のレッテルを貼られてしまったのである。

 

この時私はまだ9歳だった。

山を超えると、なにもかもが変わるのだと悟った瞬間だった。

振る舞い、習慣、そして、言葉…。

衝撃以外のなにものでもなかった。

それからは、おばあちゃんに話す言葉、幼馴染に話す言葉、本校の友達に話す言葉、大人に話す言葉を習慣的に他の友達から真似たりして学ぶことで、言語から環境に馴染めるように気を配ったのを覚えている。

友達からバカにされるから、仲間外れにされるからといった理由でそうしたのではない。

単純に私のマザータング(母語)が毎日会う友達や先生に通じないのである。

 

これが私の人生で最初に立ちはだかった言語の壁である。

思えばこれが私の言語の扉を開けた瞬間だったと思う。

会う人、場所、シチュエーションによって自分の言葉を変える。

大人になれば、もちろんそういった場面に出くわすことはある。

 

だがもう一度思い出してほしい。

 

この時私はまだ9歳。

掛け算の九九がやっと全部言えるようになってすぐである。

 

9歳でこの壁と対立した私に、もはや次の段階となる英語の習得など大きな問題ではなかったのかもしれない。

 

今回はこれまで。

ごきげんよう